Column
コラム
βventure capital Colum
QPS研究所に「経営」を持ち込んだ企業家を形作った「経験」と「哲学」
WATANABE Reito「絶望的な状況の中でも、できること、やるべきことを一つ一つこなしていくと神様は見てくれるというか、乗り越える方法が見えてきた──」
2023年12月、小型レーダー衛星(SAR衛星)の開発・運用に取り組む福岡発のスタートアップとして華々しく上場を果たした株式会社QPS研究所(以下QPS)。第二創業期ともいえる事業の大転換期の立役者の1人であり、上場時には代表取締役副社長 COOも務めた市來敏光さんは、技術者の集まりであったQPSに「ビジョン」と「経営」を持ち込むことで現在の成長にいたる道筋を作りました。
後半では、市來さんの生い立ちから現在のキャリアに繋がる歴史について、市來さんには学生時代からなにかと気にかけてもらっていたベータ・ベンチャーキャピタルの代表取締役パートナー渡辺がインタビューを行いました。
*前編はこちらから
福岡県生まれ。上智大学法学部国際関係法学課卒。ソニー株式会社にて商品企画、事業戦略策定、新規市場立ち上げを担当。同社退職後、ハーバード大学経営大学院に留学。留学 中に米国ベンチャーの立ち上げを経験。帰国後、株式会社ドーガン、太陽光パネル製造会社YOCASOLの事業再生を経て、株式会社産業革新機構(現株式会社INCJ)でベンチャー投資を担当。2016年3月株式会社QPS研究所に入社し同年7月に取締役就任。2020年7月に代表取締役副社長に就任、2024年8月に代表取締役副社長及び取締役を退き顧問に就任。
1990年、静岡県生まれ。神戸大学在学中に「金融の地産地消」を実践する株式会社ドーガンにインターンとして参画し後に入社。2017年にドーガン・ベータとして独立し取締役に就任。2024年3月ベータ・ベンチャーキャピタルへの商号変更と共に現職就任。地域にスタートアップ・エコシステムを根付かせるにはどうすべきかを考えるのがライフワーク。
世界をめざした高校生が、日系大手メーカーで経営者を志すまで
渡辺 : 前半ではQPSの第2創業期ともいえる資金調達前後のことをお伺いしました。後半では私もあまり詳しくは聞いたことのない、市來さんを形作ってきたものについて聞いていきたいと思います。
── まずは個人的な興味から質問するのですが、市來さんはなぜ経営者を志したのですか?ご自身の生い立ちも含めて教えてもらえると嬉しいです。
市來 : 経営者になりたいと思ったのは新卒で入社したソニーに勤務していた頃です。私の父方の曾祖父は筑豊御三家と言われた炭鉱会社の経営陣、母方の祖父は福岡市を創業の地とした約30年間日本で業界シェア1位の大手家電量販店の創業者ということで、私にとって経営者は身近な存在であり、経営者としての血が流れているのかなと思うことはあったのですが、社会人になるまではまったく考えていなかったですね。ただ、曾祖父が、福岡から日本一になるような会社を戦後まもない時期からエンジェルとして支援していたとか、祖父は自身が苦学したこともあって、家庭が貧しく、大学に行けない方々のための奨学金を設立したり、身体障害者向けの工場を作ったり、という話は聞いていたので、「世の中を良くする人になりたい。社会に何かを遺せる人になりたい」ということは思っていたんだと思います。
それもあって、もともとは国連で働いてみたかったんです。ただ、調べるうちに国連で活躍するためには博士号が必要で、その上社会人経験も必要であると知り、であればと国際的にも活躍できそうだと感じたソニーへ入社しました。入社した頃は「グレーターチャイナ」と言われるほど中国の勢いが増していて、同国との貿易が盛んになっていた時期でした。当時ソニーの中でも中国とのビジネスを担当している社員や中国に赴任している社員は「今後日本の経済力は中国に及ばなくなる。もう日本は終わった」と言われていたことがとにかく悔しくて。だったら、どうすれば日本が勝てるのかを考えないのかよ、と。
市來 : もう一つ印象的な思い出があって、当時の私の上司は幹部候補生として経営者育成プログラムに選抜されていて、たまに上司が戻ってきた時に、そのプログラムでの話を聞くのが楽しみだったんです。ある時の話で、当時世界的に有名な経営者(たしかジャック・ウェルチだったと思います)の生講義を受ける機会があったようでした。その講義中にジャック・ウェルチが幹部候補生に対して「今ここで、ソニーの社長になりたいやつ、手を上げろ」と言ったらしいです。そしたら、誰も手を上げなかった、と。当時の私は安直な人間でもあったので、「えー、もったいない。こんなに豊富なリソースとブランドのある会社だから、私ならすぐに手をあげますけどね」と上司に話したところ、「何を言ってるんだ。これだけの大企業を率いるプレッシャーを考えると社長になんて誰もなりたくないよ!」と言われた瞬間、「あ、日本やばい」と思いました。これほどまでにリソースが充実しているソニーでありながら、私からすれば雲の上の存在のエリート中のエリートである幹部候補生がプレッシャーを回避する後ろ向きな姿勢であることにショックを受けまして、「もしかして日本には海外と戦えるだけの優秀な経営者がいないのではないか?」との考えに至りました。ここまで来た時に、「自ら経営者になれるかはわからないが、経営者を目指してみよう」と思い始めたことが原点になりますね。
その頃の自分はというと、社内で成果を積み上げてきたことが評価され、経営層が出席するマーケティング会議などにも参加するようになり、経営判断を間近で見る機会が多くなっていた時期でした。当時のソニーには多くのカンパニーが集約していて、多くの人が働いていましたが、経営に関わるのであれば私自身こうした人達の力を束ねられるような経営者となり、世界と戦っていかなければならないという思いを持つに至りました。そこで私は、このタイミングでこれまでやってきたことを振り返りながら最新のビジネスを学ぶ機会を作りたいと考えてMBA留学を志し、運よくハーバード大学に合格して経営者になる道へ進んだんです。
── 強烈なエピソードですね。グローバルに活躍するということの原点にもなると思うのですが、もともと国連に行きたいと考えたのはいつの時期だったのですか?
市來 : 高校1年生の時ですね。当時はソ連の崩壊、第一次湾岸戦争、ソマリア内戦など、世界の各地で紛争が多発していた頃でした。「なぜこんなに戦争が起きるのだろう?なぜ平和にならないんだろう?」といつも考えていて。浅はかで恥ずかしい限りですが、「国連が世界の警察の役割を果たせばいい。だったら自分が国連事務総長になって実現したらいいじゃん!」と本気で思っていて(笑)。
── 経営者になることは全く考えていなかったけれど、トップになって何かを果たしたいという気持ちはあったのですね。
市來 : そう!その気持ちは当時からありました。その後気付くのですが、様々な理由で日本人が国連の事務総長になることは難しいということに(笑)。
── 高校生、大学生、社会人と時を重ねるうちに、日本に対して危機感を抱くようになったということですよね。
市來 : そうですね。あらためて考えると2つあって、1つはビジネスの世界に身を置いたことでビジネス自体を面白いと感じるようになったこと、もう1つは日本国内に世界と戦えるだけの経営者が不足しているのではないかという危機感ですね。自分が経営者としてビジネスの世界にあらためて飛び込むことが、ある意味ソニーに対する恩返しになるのではないか、そのような思いもありました。実はハーバード大学へのMBA留学は自費なんですよ。本当はソニーから社費として負担してもらいたかったんですけどね(笑)。
── え!そうなんですね、初めて知りました。
市來 : ありがたいことになかなか退職させてもらえなくて(笑)。一年、一年と出願が遅れる中で、最終的には「このままではいつまで経っても受験勉強を開始できない」と思って、仕方なく先に会社を退職して、それから受験勉強を始めました。MBAは働きながら、受験勉強することが当たり前とされるので、会社を退職して受験することは大きなマイナスポイントになることは退職前から多々アドバイスをもらっていました。ただ、もうこれ以上タイミングを遅らせることはできないと背に腹は代えられず。なので、果たして合格できるのかは、正直不安がありました。それよりも大変だったのは、受験勉強を開始する前年に妻と結婚したのですが、妻のご両親から「ソニーに勤めている人と結婚したと思ったのに…」と言われたことですね。「すみません」と平謝りするだけでしたが、そのような中でも結婚してくれた妻には本当に感謝しています。
── そんなことがあったとは!とはいえハーバード大学に合格したのはすごいことですよね。
市來 : 運もあると思いますが、ありがたいですね。もっと言うと、4校に出願したんですが、その他のスタンフォード大学、コロンビア大学、ヴァージニア大学にも受かりましたよ!受験勉強には必死に取り組みました。
企業再生の現場が培った、やり切る力と経営者として大切にすること
── その後帰国してドーガンへ入社されたわけですよね。
市來 : 帰国前に半年ほどアメリカで自由な時間を過ごしました。ハーバードでの2年次の途中で娘が生まれたこともあり、妻から「帰国したらどうせ家庭を顧みることなく仕事に没頭するだろうから、もうしばらくアメリカに住んで、娘と過ごす時間を作ってほしい。」と懇願されまして。卒業後にボストンからカリフォルニアへ移り住み、シリコンバレーで生活しました。
その後、帰国して2010年2月にドーガンへ入社するのですが、入社するまでにいろいろなことを考えました。大学の卒業を控えたタイミングでは、「今の自分には経営の経験がなく、ハーバード大学を卒業したからと言ってすぐに大企業の経営者になれる訳がない。なれるとしたら経営者を必要としている再建中等の問題を抱えている企業しかない。」と考えていました。当然そのような問題を抱えている会社はお金もないので、まともな給与もだせない。ハーバードを卒業した同期は、投資銀行、ヘッジファンド、コンサルなどに就職して初年度から高い給与をもらっているけど、卒業してすぐに経営者を目指すと生活に必要な収入を得ることができないな、と。豊かな生活ができる収入が必要ならばコンサルティング会社やヘッジファンドなどに就職した方がよい。自らの経営者になりたいという思いと収入との間に矛盾を抱えた状態に陥りました。
ただ、自らの「経営者として日本を強くしたい」という原点への気持ちはMBA受験前と変わらず揺るぎないものがあったんです。それゆえ、まずは経営に近しいポジションに身を置ける職を第一優先に就職活動することを決めました。帰国後、たまたま私の地元福岡に拠点を置くドーガンがPEファンドに関わる経営管理人材を募集していることを知り、早速応募してみたところ、すぐさま同社から呼び出しがかかりました。複数回にわたる面接を受けましたが、最終面接ではファンド出資先複数社の概要書を見せてもらい、「市來さん、どの会社に行きたいですか?」という具合に話が進みました。この時は非常に驚いたのですが、「一番やりがいのある会社で経営者を務めたい」と伝えたところ、提案された会社がYOCASOLでした。YOCASOLは再建の必要な会社でしたので、当時ドーガンの社長からはドーガンからの出向という形でYOCASOLに行ってほしいと言われましたが、本当にYOCASOLを再建するという覚悟を従業員に見せるには私もYOCASOLのプロパーの社員となって、家族もYOCASOLのある大牟田に連れて行くべきと考え、そのようにドーガンの社長にはお願いしました。結果、ドーガンへ入社後2カ月後の2010年4月にYOCASOLへ転籍しました。
ちなみに、ドーガンへ転職しそれをきっかけとして経営陣になることを母親へ報告したのですが、何とドーガンの森代表と私の母親が知人関係にあったことも判明しまして。ここまでの流れは本当に縁なのでしょうね。
── 東京の企業へ転職するという選択肢もあったと思いますが、リスタートするうえで地元の福岡で働きたいという思いがあったのでしょうか?
市來 : いえ、福岡へのUターンを意図したわけではなく、本当にたまたまのご縁でしたね。経営者としての経験値を積むためにやりがいがある企業で、ということでYOCASOLを提案してもらった訳ですが、YOCASOLに行くことが決まって、とりあえず財務諸表を見させてくれとお願いして財務諸表を見た時、「これはどう考えても資金繰りが回っていないよね!」と衝撃を受けました。急遽、ドーガンのYOCASOL担当者へ電話したのですが、担当者からは「あっ、気が付きましたか。でも、この後に追加出資をしているので、今は大丈夫です」と言われたものの、会社を取り巻く状況を考えると、急ピッチで経営再建を行う必要があると判断しました。
── ここまでのお話しからすると、YOCASOLでの経験が市來さんの経営思想の基礎になったのではないかと感じるのですが、具体的に何が基礎になったのか教えてもらえますか?
市來 : おそらく、自分の中で言えば大きく3つあります。1つ目は、YOCASOLでの経験を通じてキャッシュフローをベースとした経営スタイルになったこと。当時約150名の従業員を抱えていた中、数ヵ月後の給料を支払えるのかどうか…という状況でした。従業員の家族を含めて何としても彼らの生活を守らなければという意識が強くあり、どうにかして企業を延命させるために資金繰りの管理を徹底して行いました。管理システムを導入する資金がありませんでしたので、その代わりにエクセルを用いて受発注その他資金繰りに関する管理を行いました。
加えて、透明性の高い経営を目指して、このエクセルには全従業員がアクセス可能としました。従業員へ資金繰りの全容を明らかにすることは、特に資金繰りに問題のある会社の経営面においてリスクがあるとは思いましたが、とにかくこの会社を立て直すために正確さを追求すべきという思いを重要視し、これを実行しました。正直運もあったと思いますし、誠実な従業員に恵まれたということもあったと思いますが、この資金繰り管理で大きな問題が出ることもなく、むしろ針の穴を通すほどの日々の資金繰りで会社を存続させることができたので、当時の判断は間違っていなかったのかなと考えています。
── この時から「日繰り表」を活用していたのですか?
市來 : そうですね。1円単位のズレもなく作成していました。YOCASOLの方がより複雑でしたが、日繰り表はQPSでも作成していて、この時の経験が大いに役に立ちましたね。
2つ目は、経営陣とステークホルダーのベクトルを合わせることの難しさを学べたことです。QPSでは宇宙スタートアップという期待と共に経営も上手く進んでいたので、両者のベクトルを合わせることは比較的容易で今に至るのですが、当時経営危機に陥っていたYOCASOLはそうではなかったです。株主、金融機関、行政、取引先、皆それぞれの立場に基づいた主張があるためベクトルが合わず、誰かの主張を採用すれば誰かを裏切ることになるという、いわばトレードオフのような状況に陥っていました。このような状況が続いていたので、いかにベクトルを合わせるか、自らはどのような決断をすべきか日々悩み、本当に苦しかったです。言い方に語弊があるかもしれませんが、この会社を存続させるためには誰かを裏切らなければならないということもありました。
ただ、良いように捉えれば、この時の経験が私の心を強くしたのだと思います。各ステークホルダーの主張を目の当たりにしていた当時は「なんでそんな無茶なこと言うんだよ!」と腹を立てていましたが、一歩離れ冷静に考えると、彼らの主張は彼らにとっては正しいことなのです。ただ残念なことに各ステークホルダーの正しさが互いに嚙み合うことがない。となると、頼れるのは「どの選択をすることが、最大多数のステークホルダーを一番幸せにするのか」という私自身の信念しかない。信念を貫く覚悟を持って経営を続けましたが、途中様々な事があり、実際は辛かったですね。経営者として従業員とその家族の生活を背負っていたので。
元々YOCASOLは太陽光発電という今後世界的に大きく成長することが約束されている環境の中で、2007年に当時中国に買収された日本企業の大牟田工場が独立してできた会社でした。しかし、独立間もなく経営が軌道に乗り始めたところでサブプライム危機(リーマンショック)が起き、世界的に市場が一気に冷え込んだせいで、YOCASOLは大きな負債を抱えることになりました。一度暗転した状況を立て直せない中、私が2009年末に米国から戻ってきて、2010年に転職することになりました。
YOCASOL着任当初から営業調達の管掌取締役として、営業調達関連の立て直しを進めていましたが、資金調達も急務でしたので、同時並行で事業計画やピッチ資料を作成しては、当時の社長と一緒に資金調達に駆け回っていました。何とか大手化学企業から3億円のエクイティ調達を実現し、サブプライムから回復しつつあった太陽光発電市場の需要を満たすべく、生産ラインの拡張が決定したのですが、調達の1週間後に東日本大震災に被災したことでまたも潮目が変わってしまいました。YOCASOLは多くの日本でも名だたる大手メーカーの太陽電池パネルのOEMや受託をしていましたが、市場が完全に停止したことで、当然に全メーカーより取引の停止を言い渡されることになりました。私が代表取締役社長に就任したのはそのようなタイミングでしたね。大手メーカーとの取引のストップが決まっているので、売上は限りなくゼロになり、このままだとあと数カ月で資金ショートするのは明白、という状況でした。
会社は倒産すればすべてが終るが、生きてさえいれば復活の機会を得られると信じていましたので、新しく就任した社長としてどうにかして会社を存続させなければと必死でした。取引がストップしたことで製造するものがなくなれば、従業員を働かせることも給与を払うことができなくなります。このため、ワークシェアリングという形で自宅待機して頂く代わりに従業員の給料を減額せざるを得ない状況となり、全従業員一人一人と都合2回個別面談を行い、現状の説明といつまでに改善する予定かの説明を行いました。
面談を進める中で、とある従業員からは「今日は結婚して一年目の記念日なのに、妻に給与が4割カットになるなんて言えない」と泣かれ、「子供が高校に進学するが制服代も支払えない…」などの苦しい事情を話され、とにかく心が痛かったですね。社長として、このような事態になったことに対してとにかく頭を下げつつ、必ず近いうちに好転させるから、と理解を求めました。有難いことに、全従業員が「市來さんを信じます」と言ってくれて、あの絶望的な状況の中で自分を突き動かしていたものがあるとすれば、「何が何でも自分を信じてくれる彼らを路頭に迷わせるわけには行かない」という気持ちだけだったと思います。一方で資金繰りは火の車という状況をどう乗り越えるか考える日々は辛かったですね。それこそ毎日24時間考え続けているような状況でしたので、家に帰っても常に考え事でうわのそら。家族ともほとんどコミュニケーションもとらず、妻には本当に迷惑をかけたと思います。
3つ目は、こうした苦境の中でも黒字化を含めた当時の多くの課題を解決し、会社を存続させられたことです。
── それは本当にすごいことですよね。
市來 : あれだけ絶望的な状況の中でも、できること、やるべきことを一つ一つこなしていくと神様は見てくれるというか、乗り越える方法が見えてきたんですよね。資金調達活動を進めていく中で、地場の大手企業がYOCASOLへの出資に興味をもってくれたんです。ただし、出資を実現するために3つの条件を課されました。1つ目は資金繰りを改善して、出資予定時期まで資金繰りを維持できることを合理的に示すこと、2つ目はリーマンショック後の2008年10月より継続している営業赤字を黒字化させること。3つ目は2008年に締結した部材の長期購入契約に基づくドイツの太陽光最大手企業からの約80億円の損害賠償請求の解決、というものでした。
1つ目については、当時YOCASOLの調達パートナーであり、事業連携の提案も受けていた海外の産業機器メーカーへ藁をもつかむ思いでドイツまで運転資金調達の相談に行ったところ、資金提供はできないが、過去の調達契約を締結した際に支払った前渡金を100%取り崩して、現物支給は可能だということで、数億円分の太陽光電池セルをキャッシュアウトなしで支給してもらいました。調達パートナーからすれば、この前渡金は返す必要のない金額だっただけに、手を差し伸べてもらえたことに本当に感謝しました。これらを日本国内のメーカーへ売却して数億円の資金を得て、何とか資金を繋ぐことに成功しました。
2つ目については、当時のYOCASOLは主に海外向けのメガソーラーの太陽電池パネルをメインで販売していたのですが、これは薄利多売な上に為替の影響を受けやすく赤字に陥りやすいという状況でした。そのような中でも当社の太陽電池パネルは住宅向けやシースルーモデル等の付加価値の高い太陽電池パネルの製造に高い技術力を有していました。幸いにも東日本大震災後に国内大手の家電量販店への住宅向けの太陽電池パネルの供給や、国内メーカーから新製品の開発依頼も入るなど付加価値を意識した販売へ変更したことで利益率が向上しました。一方、前述のように大手メーカーとの取引がストップする中で何が何でも会社を存続させるために、従業員の給与カットだけでなく、血のにじむような経費節減を行っていたこともあり、黒字化を果たしました。
3つ目については、とにかく相手であるドイツの太陽光最大手企業と交渉をしました。弁護士を雇うお金もなかったので、英語で交渉できるということで、私が全面的に対応しましたがとにかく大変でしたね。請求金額としては当時のYOCASOLが一瞬で吹き飛ぶレベルである一方、顧問弁護士からは当時締結した契約書が圧倒的にドイツの会社に有利で、勝てる見込みは一切なし、と言われていたので、とにかくYOCASOLが倒産しないようになんとか解決しなきゃとすごいプレッシャーでした。最初の交渉は東京にある先方の日本オフィスで、先方の日本支社長(ドイツ人)と私の一対一で英語で行いましたが、極度の緊張もあったのか、交渉を終えた直後に地下鉄のトイレで吐いたのを覚えています(笑)。その後、1年半の間、初めは日本支社長と、その後ドイツ本国の役員と直接交渉を続けました。ほぼ毎日電話をし、複数回ドイツの本社にも飛んで交渉を続けた結果、最終的に同社から譲歩を得られ、当初約80億円の請求額を0.5億円に減額すると提示があり、解決へ向かいました。
市來 : すごく心に残っているのは、1つ目と3つ目の条件は相手はどちらもドイツではあるものの違う企業でしたが、最後に支援の提案、もしくは譲歩の提案を頂いた時に言ってくれた言葉が共に偶然にも「Toshiの会社をつぶしたくない」というものでした。特に3つ目は相手からすれば1年半もの間ハードな交渉を続けてきた私は憎き敵だったはずなので、そのような言葉をかけてもらえたことがどれだけ嬉しかったことか。
やっとのことで地場大手企業が提示した3つの条件をクリアし、同社を訪問して出資をお願いした訳ですが、当時とは経営陣は皆変わってしまっていて… 結局出資は実現しなかったのですが、不可能と思える局面でも、やるべきことをやっていれば意外と乗り越えられるんだなという自信は芽生えましたね。この経験を得てからは、困難な場面に立ち会っても何とも思わなくなりました(笑)。
「ないもの」が多いスタートアップで、重要になる要素とは?
渡辺 : ここまで多くの話をしていただきましたが、個人的にどうしても聞きたいことがありまして。自分は2012年3月にインターン生としてドーガンに入社したのですが、当時催されていた月末の社員懇親会の場に、3回に1回くらいの頻度で市來さんも参加されていましたよね。その際、まだ大学生であった自分へたくさん話しかけてくれたことが思い出として残っています。当時どんな気持ちで話しかけてくれていたのですか?
市來 : なんだろう… おそらく2つあって、渡辺さんは大学生の頃にインターンとしてドーガンへ在籍していた当時からスタートアップ支援を行いたいという強い意思を持っていたわけですが、単純にそんな渡辺さんに興味を持っていましたね。もう1つは、若いうちからスタートアップに対し投資の仕事ができるのはすごく恵まれているなと思ったんです。私自身、ハーバード大学の留学を経た30代の頃にスタートアップ投資の存在を知ったのですが、渡辺さんは大学生の頃からこれに携わり、業界に足を踏み入れている。この経験は将来貴重なものになるんだろうなと思いを馳せながら、自分が持っていない視点を学びたいと思って話しかけていたと記憶していますね。
渡辺 : 当時、私は21歳か22歳の年齢で、まだ大した経験もない若者に対して、ご自身にはない視点を見出して話しかけてくれていたのであればとても嬉しいですね。
── その後、市來さんは産業革新機構(以下INCJ)へベンチャーキャピタリストとして転職されたのですが、事業会社、MBA、PEファンドそして経営者とキャリアを重ねた中、その次のステップとしてVCを選択されたのですか?
市來 : YOCASOL退任直後はINCJで働くことは一切考えていなかったですね。ただYOCASOLの経営者時代に抱くようになった日本の課題があったんです。YOCASOLは前述の通り多くの日本を代表する大手メーカーを株主や顧客にもっていたので、担当者の方々が大牟田に来られて食事をする機会がよくあったのですが、当時不思議なことに皆同じことを話していたんですよね。「今の日本のメーカーは、30〜40年前の経営陣が投資をして懸命に育てた技術によって支えられている。一方、今の状況を見ていると、将来を見据えた投資を全くしていない。20〜30年後の日本が心配だ」と。この話を聞いて危機感を抱くと共に、どうにかして将来の日本の産業を支えるような技術を生み出せないかという問題意識を持つようになりました。
そのような状況で、偶然ハーバードMBA時代の後輩でINCJでも働いた方から連絡をもらい、その彼が福岡へ遊びに来た時に会って、自らの問題意識について熱く語ったのですが、「市來さんみたいな方がINCJで投資を行うべきじゃないですか?」と言われたことを憶えています。私としてはそもそもファンド投資に興味がなかったのでその時は気にもしなかったのですが、当時いくつか大手企業の経営ポジションのオファーをもらう中で、これもまた偶然なのですがINCJの採用情報が伝わってきまして。ならば応募してみようということで応募したところ、面談した方々は皆私の経営者としてのキャリアに興味を示し、日本の産業に対する問題意識にも共感してくれました。
とある面談担当の方から、「30代の半ばでターンアラウンドの形で経営に携わり、投資家からエクイティの調達を行いながら金融機関からデットの調達も行い、厳しい経営状況の中で黒字転換を実現し、最後までやり切った経験を持つ人物は日本全国を見渡してもほとんどいない。一つの会社を大きくするのも素晴らしいことだが、日本には市來さんの経験を必要とする企業が多くある。これらの企業に自身の経験を提供する意義を考えてみてくれないか?」と言われ感動しました。オファーをもらっていた他の企業と比べINCJが提示する給料は正直言って一番低かったのですが、私の中で同機構で働く大義を感じたこともあり入社することを決断しました。これもご縁ですよね。
渡辺 : 私達ベータ・ベンチャーキャピタルの「ベータ」って、いわゆるベータ版の状態で何だかよくわからないし、どうなるかわからないけれども将来絶対に必要だよねと、我々が信じるものに対して投資をするという意気込みでつけた名前なんです。どうなるかわからないものにチャレンジすること自体はスタートアップの世界では当たり前に遭遇するものではありますが、市來さんが入社した当時のQPSはまさに「何だかよくわからないもの」そのものだったじゃないですか。加えて、多くの人から「技術的に可能だとしても、本当にこの会社でできるのか?」とも言われたんじゃないのかなと。
── 本当にできるかわからない状態で、わからないものをわからないまま抱えて進むことは多くの人にとって難しいことだと思っているのですが、経営者として「事業を見立てる」一方で「わからないことを抱えながら進む」という状態を市來さんはどのように乗り越えたのでしょうか?
市來 : 不確実性がある世界に飛び込む事について話すと、これは結局「性格」や「慣れ」みたいなところがあると思います。
そもそも投資をするということと実際に経営に参画することは全く異質なものと考えていて、というのも投資における不確実性は最悪失敗しても有限責任組合員の方々への説明責任にとどまる程度で、自らや、共に働く仲間の生活にはさほど影響がないですよね。これが実際に経営者として身を置くのであればプレッシャーが全く異質なものになります。
スタートアップ投資を推進するINCJにおいても、私が始めに携わった業務はターンアラウンド案件でした。当時INCJが70億円を投資していたにもかかわらず投資後2年間1度も黒字化しない状況にあった会社でしたが、半年後に黒字化させてしっかり利益体質へ転換させることができました。その企業が取り組んでいた事業は当時は真新しいビジネスで、前例がなく、私が担当するようになった年にその業界に関する法整備ができたくらいでした。社員を見ていても不確実性を有する中でビジネスを作らなければならず、常に「自分がやっていることが正しいのだろうか?」と疑問や不安を抱えているのをよく感じていましたが、新しく連れてきた経営陣がリーダーシップをもって「新しい世界を自分たちが作っていく」ということを丁寧に説明され、私も社員の方々とよく飲みに行ったり、コミュニケーションをとったりする中で、経営陣の言葉がうまく浸透していないなと思う部分をかみ砕いて説明することで、理解してもらうことを意識していました。結果的に黒字化どころか、大きなビジネスに成長したことで、まだ黎明期のビジネスを創り上げることへの免疫と自信がつきましたね。この時の経験は宇宙領域という不確実性の高いビジネスを行うQPSの経営においても役に立ったと思います。まあ、「先が見えない」という意味での不確実性であれば、YOCASOLで極限の経験をしてきたので、そもそも心臓に毛が生えすぎていたのもよかったのかもしれません。
市來 : もう1つあって、世の中の人は職業を選択する時に「これぐらいの生活をしたい」と理想を掲げることが一般的かと思いますが、この理想の水準がちょっと高くなりがちだと思うんですよね。私はこの水準が低いんです(笑)。贅沢することも見栄を張ることにも興味がないですし、家族が食事をするのに困らず、子供が望む道に行くために経済的に不自由しないだけの蓄えがあれば、あとは多くを望まないんです。最低限年収500万あればなんとか生きていけるよな、700万円もあれば十分だなという前提のもと、収入の多寡に拘らず、心から一番やりたいと思う仕事をやろう、というのが私の信条です。生活のために年収が最低2000万円必要だとなると、職業の選択肢は自分の希望に合うものを含めると狭くなるかもしれませんが、最低500万円あればいいやと思えれば、とれる選択肢が途端に広がるんですよ。こうした背景もあり、QPSという不確実性の塊と出会った時、私自身の収入のことを全く考えていませんでした。
加えて、これまでの過酷な経験から、自らの収入は自分次第で何とでもなるという思いもありましたので、INCJへ転じてからは自分の理想を果たすために仕事をしていきたい、と考えていました。
── 市來さんは初めてQPSと出会った時に勝ち筋に繋がるアイデアを想起した訳ですが、これは市來さんがVCに所属していた際、出会ったどの企業に対しても思いつくものだったのでしょうか?それともQPSの掲げていたテーマだったからこそ深いアイデアを想起することができたのか。
市來 : ビジネスを創造する要素の一つである「プロデューサー」の能力については、INCJに在籍していた時の学びの1つですね。同機構はファンドを主業務とする企業の中でも珍しく、ファンド投資経験が無い人物を採用してファンドマネージャーとして育成するという哲学があり、そのため多様な経験を持つ魅力的な方々が在籍していました。当時仲良くしていたキャピタリストの同僚にはプロデュース能力が豊かでビジネスを作ることに長けている人がいて、起業家が語るビジネスがより成功できるように足りない部分に対して「これを組み合わせたら面白くなるんじゃないか」と発想して提案するんですね。その提案が驚くほどにクリエイティブで。こうした同僚の発想や考え方を見て、「ビジネスを作るってこういうことなんだ」と学びました。QPSにおいては不足しているリソースは日本で一番と思う人や会社を口説き落として埋め合わせれば良いという考えや、ビジネスモデルの想像も他の業界を組み合わせて面白いと思う世界を創造してみるという、同機構での学びが大いに活きたのだと思います。世の中には様々な業界がありますが、何に何を繋げれば大きく発展するのかと想像し、ビジネスとしての可能性を追求することはどの業界にも通ずることだと思います。
この時の経験があったからなのか、QPSと出会ったときの私はまさに「INCJ時代に投資したあの会社のビジネスモデルとQPSの強みを組み合わせることができれば大きく飛躍するのではないか?」というイメージが鮮明に湧きました。私がQPSと出会った2015年半ば時点では小型SAR衛星とAIを組み合わせたソリューションを提唱する企業は当時どこもなかったこともあり(その後すぐに一般的になりましたが)、先行者としてそういう世界を念頭に開発を進めることができたのはラッキーだったと思います。これは私だけが特別な才能を持っているという話ではなくて、誰しもが独自の視点を持っているはずであり、ここから妄想して考え続けることができれば新たなビジネスを生み出すことができると思います。そう考えると、私ではない誰かが当時のQPSに注目していたならば、今の形とは全く異なるビジネスが生まれていた可能性がありますよね。
── なるほど… 大事なことは、ないものばかりに目を向けるのではなくて、今あるものに何を繋げたらよいか?という発想ですよね。
市來 : スタートアップは「ないもの」が当たり前の世界であって、すべてが揃っていることはあり得ないわけで、揃っていないからこそ常に何を持ってくれば良いのか?何を繋げると良いのか?を考え続ける世界です。その観点から言うと、私は交渉して組織や人を口説き落とすのが好きですね(笑)。
── 市來さんの人を口説き落とす技術は天性のものなのですか?
市來 : いや、そうではないと思いますよ。おそらく経験から得たスキルだと思います。相手が何を必要としているのか、相手の立場では何が問題なのか、様々な経験を積んだことである程度自分の中で想定ができるようになったのだと考えています。今でも交渉に臨む際には内容や声のトーン等、数十ラウンドのシミュレーションを頭の中で行ってから臨みますが、最後は「気合い」と「人間性」の世界ですね。「市來さんなら信じてもいいかな」と思ってもらえるかどうか。ま、大抵、私が「気合い」を見せた途端に相手の方は「えーっ!」と驚きますが。
── さすが市來さん、クロージング力が高い!
市來 : 例えば、とある衛星部品の需給が逼迫していたとき購入することが非常に困難な状況になっていたのですが、とある大手メーカーが何とか売ってくれそうだという情報を得たんですね。そこで私が交渉に入ったのですが、メーカーの担当者は「生産が追いつかなくて供給することは難しいかも…」というネガティブな反応を示していて。そこで私は「今この場で前向きな回答を出してくれるならば、この先打ち上げるであろう複数台分の衛星部品も今この場で契約します!」と発言したところ、担当者が驚いて一気に潮目が変わり、交渉が前に進むようになりました。もちろんここまでの話に至るまでの交渉プロセスは慎重に進めていて、メーカー側の事情を汲み取りながら、「当社としては現在保有する資金の状況から、ここまでなら購入することができます。今弊社が見せられる最大限の誠意です。」と伝えたわけです。結果的に相手の期待を大きく上回ったのでしょう。
渡辺 : スタートアップ特有のスピード感を持って交渉を進めることができたのも、市來さんが日々資金管理を行い、経営面の守りの部分を固めてきた賜物なのかもしれません。
===
後半では、文字通り市來さんの半生を振り返るようなインタビューとなったのですが、最終的には気合いや人間性ということが多々語られたのも市來さんらしいなと思いました。これから経営者を目指す人や、共同経営者を探さなければいけないような起業家にとって、一つのロールモデルとして参考にしていただけると嬉しいなと思っています。
市來さん、本日は長時間にわたりありがとうございました!
関連コラム
-
VCはじめまして! 初回面談に必要な準備とタイミングはどう考えるべきか
- Tips記事
今回は宮崎を拠点に活動をしている津野が担当です。 スタートアップで初めてベンチャーキャピタルとコンタクトする際にどんな資料を準備をすればいいのか分からないという起業家は少なからずいらっしゃるのではないでしょうか。 宮崎で活動をしていると、これまで投資家との接点がなかったような起業家から… -
【代表パートナー林 特別寄稿】ベータ・ベンチャーキャピタル初の人材公募にあたって
- コラム
こんにちは。ベータ・ベンチャーキャピタル代表の林です。今日は特別企画(?)として、VCファームとして弊社の人材募集記事を投稿させていただきます。 弊社では年内を目処に新メンバーの採用を考えています。これまでは会社の規模も小さかったことから、大々的な採用活動は行っておらず、リファラルやインターンから… -
優先株がVC投資のデファクト・スタンダードになったワケ
- Tips記事
こんにちは、ドーガン・ベータの渡辺です。DOGAN beta labではこれまで資本政策や投資契約など、スタートアップの投資実務に関するポストをいくつかしてきました。しかし、その根本である「株式」についてはまだ触れたことがなかったことに気づきまして、今回はそのなかでも今やほとんどのスタートアップが採… -
β キャピタリスト年頭所感 2023
- インタビュー
新年あけましておめでとうございます。 2022年もドーガンベータラボをご愛読いただきましてありがとうございました。今年は開設した2021年に引き続いて投資先企業やLP投資家様とのインタビュー記事を公開しつつ、キャピタリスト個人による記事にもチャレンジする1年となりました。 福岡のスタートアップ・…